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児玉党ここによみがえる

「平家物語」における児玉党(2)

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樋口次郎は児玉党にむすぼほれたりければ、児玉の人ども寄り合ひて、「弓矢とるならひ、我も人もひろい中へ入らんとするは、自然のことのあらん時、ひとまどの息をもやすめ、しばしの命をもつがんと思ふためなり。されば樋口次郎が我等にむすぼほれけんも、さこそは思ひけめ。今度の我等が勲功には樋口が命を申しうけん」とて、使者をたてて、・・・

「平家物語」巻第九の「樋口被討罰(ひぐちのきられ)」の章の一節です。 樋口次郎兼光は今井四郎兼平の兄で、ともに木曽義仲の重臣です。ここでは、児玉党が樋口と縁故関係を結んでおり、そのよしみで助命を願い出るから降伏せよと説得する話が語られています。

ちなみに、この一節は以下の内容になっています。

樋口次郎は児玉党と縁故を結んでいたので、児玉の人々が寄り合って、
「弓矢をとって戦う習わしとして、我も人も広い世間と関係をもつのは、もしものことがあった時に、それを頼って一時をしのぎ、少しでも命を保とうと思うからである。だから、樋口次郎が我らと縁故を結んだのも、そう思ったからだろう。今度の我らの勲功として、樋口の助命を願い出よう」
と相談して、樋口のもとに使者をおくり、
「木曽殿の御一家に今井・樋口と名高かったが、今では木曽殿はお討たれになったのだ。なんの支障があるだろうか、我らの中へ降伏して来られよ。勲功の賞に申しかえて、命だけはお助けしましょう。出家して仏道に入り、主君の後世を弔われよ」
といった。 樋口次郎は有名な武勇の士であったが、運が尽きたのであろうか、児玉党の中に降伏して出たのだった。
このことを九郎御曹司(源義経)に申し上げた。院の御所に奏上して、お許しがあったが、側近の公卿、殿上人、局の女房たちが、
「木曽が法住寺殿へ攻め寄せ、鬨(とき)の声をあげて火を放ち多くの人々を滅ぼし、君をも悩ませたときには、あちらこちらで今井・樋口という名ばかりが聞こえました。これらを許されるのは無念なことです」
とおのおのが申したので、死罪と定められた。

なお、吾妻鏡の寿永3年(1184年)2月2日の条には、

「樋口次郎兼光を梟首す、・・・(中略)・・・、此兼光は、武蔵国児玉の輩と親昵たるの間、彼等勲功の賞に募り、兼光の命を賜はる可きの旨申し請ふの処、源九郎主、事の由を奏聞せらると雖も、罪科軽からざるに依り、遂に以て免許有ること無しと云々」

とあり、児玉党の説得によって樋口が降伏した旨の記載はありません。
しかし、児玉党が樋口と親しい間柄にあり、助命を勲功にかえて願い出たことは共通しています。
華々しい戦闘の裏側では、血族を絶やさぬため広く縁故を築く努力がなされていたものと思われます。

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